四十歳を迎えて, ホセ・グアダルーペ・ポサダとメキシコのスカル

2004年10月1日

今年の八月でちょうど四十歳。三十代最後の節目の作品は水晶ドクロ、クリスタル・スカルの鉛筆画だった。クリスタル・スカルの鉛筆画は十年ほど前にも描いているので今回で二枚目になる。単純にドクロというと誰もが死をイメージするけれど、このドクロの作者は人骨はデータベースであるといったことを象徴として表現していたのだという話も聞く。素材の水晶も実際にデータベースとして機能するらしい。私が鉛筆画で描いたロンドン人類博物館のスカルを初めて見たのは一九九二年の初めてのエジプト旅行の帰りのことだった。当時、大学院の同級生だった知人女性の両親がロンドンに長期で滞在していて、エジプトまでの飛行機が英国航空だったのでトランジットで数日間ロンドンの彼らのマンションに滞在させてもらえることになったのだ。
ブリティッシュ・スカルとも呼ばれるこのクリスタル・スカルを見つけるまでにはかなりの時間がかかった。最初大英博物館を訪れたのだが、展示されていないことを知りその後人類博物館を訪れ、ようやく対面することができた。このスカルはメキシコで発見されたとされているようだ。そういえばメキシコではスカルを日常的に目にすることが多い。ホテルのレストランに置物のスカルが飾られていたこともある。そしてメキシコとスカルといえば、版画家ホセ・グアダルーペ・ポサダの名前がすぐに思い浮かんでしまうのだが、ポサダは私が最も尊敬するアーティストのひとりだ。私自身がポサダの生まれ変わりであると信じたいと考えているほど。ポサダの版画は彼の死後、ただの新聞のビラでしかなかったものが大統領の外国訪問に際しての献上品にされるような価値の高いものになってしまったそうだ。しかしながら生前の晩年には貧困の中、奥さんには先立たれ彼自身の死も誰にも見取られることがなかったらしい。
生まれ変わりというと、よくチベットの高僧の転生者探しの話がある。ダライ・ラマ十三世の生まれ変わりとされる少年は、先代のダライ・ラマの使っていた調度品をすぐに見抜いたそうだ。私自身とメキシコとの関連性には僅かに思い当たることもある。中学生の頃美術の授業でお面を作ったことがあり、そのとき自分はなぜかドクロのお面を作った。先生は「どうしてそんな不気味なものをテーマにするんだね?」と怪訝そうに私に言った。でも自分にとってドクロは不気味なモチーフとは感じられなかったのだ。まあそのころ諸行無常とかいった言葉も好きだったのだが、単にドクロを通じて無常観を表現したかったというわけでもない。ただなんとなくドクロのお面をつくりたいと思ったのだ。また彩色もいかにもメキシコっぽい、黄色や赤、青の原色の色で塗り分けられたドクロのお面だった。まあ思い当たることといえばたったそれだけなのでそれが自分がメキシコ人の生まれ変わりであるという証拠になるものでもない。でもとにかくメキシコは大好きだ。
「ポサダの名前は偉大なるがゆえに、おそらくいつの日にか忘れ去られるだろう。メキシコ民衆の魂と統合するがゆえに、ポサダという個人は完全に消え去ってしまうことになるだろう」という巨匠ディエゴ・リベラの言葉、強い感銘を受けた。誰もが人より目立ちたい、そして名声を得た者が成功者であるかのように扱われるこの世界で、こういった言葉を発する人間がメキシコには居るのだと思うと、それだけでメキシコがとても偉大な国のように感じられてしまったものだ。
初めてのメキシコを訪れた一九九三年当時は東京、銀座の画廊に勤めていた何人かの若い画商さん達と交流があった。偶然にもメキシコへ出かける直前の時期にポサダの画集をいただいたのも彼らの一人からだった。そして彼らの中で特に私と親しかった若い画商さんに多少嫌味交じりの口調で「君は画壇からは消えていくね」と言われたことがある。けれどもちょうどその頃ポサダに関するディエゴ・リベラの言葉を知り感銘を受けていたときだったので彼の発した消えるという言葉がとてもうれしく感じられてしまったのだ、そして私はとっさに「僕は消えるから消えないんだよ!」とちょっと偉そうに言い返してしまったのだ。
今、ちょうど時間が明け方の四時四十四分、死・死・死、シッ!・シッ!・シッ!。そういえば初めてメキシコを訪れた時、最初の晩に泊まったメキシコシティ、ソカロのグラン・ホテルの部屋番号は四二七号室だった。死・に・な!、メキシコっぽくていいなあととても光栄に感じられてしまったものだ。

クリスタル スカル(ロンドン人類博物館所蔵品より)鉛筆画, 59.4x42cm 2004年作
公開日 2004年10月1日 金曜日

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