回想録,芸大美大受験と映画監督 高橋伴明さんのこと

2017年3月20日

私にとっての大学受験といえば四年前に東京藝大の文化財保存修復、日本画研究室の博士課程を受験して不合格だったことが記憶に残っているけれども、若き日の一九八七年に東京藝大油画科に初めて合格した頃の出来事はなぜか別の人生を生きていた前世の記憶ででもあるかのような印象を持ってしまう。しかしながら当時の記憶は断片的ながらまだ残っているのでそれらが消えてしまわないうちにここに書き留めておきたいと思う。
高校時代は地元の名門校沼津東高に通い美術部に所属して一年生の頃から石膏デッサンや油彩画の勉強を始め夏休みや冬休みなどには東京の美術予備校の講習会などにも参加していた。その現役時代の初めての受験では実技の一次試験で不合格だった。次の一浪目は一九八三年四月から東京、池袋のすいどーばた美術学院に通った。小さい頃からすぐに修行僧モードに入りやすい性格だった私は、毎朝夜が開ける前から予備校に行きまだ誰もいないデッサン室で石膏デッサンを勉強しその後他のみんなと同じ予備校のカリキュラムに参加するという日課を自分に課してしまったりしていた。予備校から近い下落合は画家佐伯裕三も暮らしていたエリアでこのすいどーばた美術学院はアカデミックな雰囲気が漂っていて私は大好きだった。当時ライバルの予備校に新宿美術学院があってこちらはいかにも現代風と言った印象だった。すいどーばた美術学院では伝統的な裸婦のクロッキー教室も頻繁に行われていて、そのクロッキー教室によく来ていたモデルさんの中にオレンジ色のローブを着て首に数珠をかけている人がいた。そしてなぜか彼女たち他のモデルさんと違いポーズに張りがあって、かなり日焼けもしていたのでインドあたりでヨーガなんかを練習している人達なのだろうと思っていた。その予備校の同級生の一人小林君から彼女たちはインドの導師に弟子入りしている人なのだと教えてもらった。彼のアパートに遊びに行くと部屋にはその導師が語った分厚い講話本が何冊も置いてあって、その中には私がそれ以前からも強い関心を持っていた禅に関する本もあり、小林君はタオ(TAO)と書かれた本を開いて私に朗読してくれたこともあった。導師の名前はバグワン、そして小林君が初めてこの言葉を口にした時なぜかとても懐かしい言葉のように感じられた。後で知ったことなのだがバグワンという言葉、インドでは誰に限ってということなく導師に対して使われる尊称なのだそうだ。日本の禅の世界で言えば和尚のような言葉なのだろう。私はその後バグワンのことが気にかかってしまい本屋を訪れる度に彼の本を探すようになり、神保町の古本屋街の中にある大きな書店でようやく見つけることができた。初めて書店で見つけた日に買った本はバグランが荘子の故事をテーマに語った講話本『虚空の舟』。本の冒頭には荘子の故事が紹介されていて当時の私はその言葉を読んだだけですでに面食らってしまった。これからライバルたちを蹴落とし競争に勝ち抜いていかねばならないといった考えに支配されてしまっていた当時の私の状況にとっては足を引っ張られるような内容だったからだ。そしてバグワンは人々が本音では感じていながら見て見ぬふりをしている事項に深く切り込んで語ってくれているといった印象は受けたけれども、読み進んでいくうちに受験がバカバカしくなってきそうで全部読まないまま押入れにしまいこんでしまった。その後私の中で再びバグワンが復活したのは四年後の一九八七年四月に東京藝大油画科に入学してからさらに二年ほどが過ぎてからのこと。そしてその頃の彼はバグワンではなく和尚(OSHO)と呼ばれるようになっていた。

『・・・もし自分の智慧を深め無知を恥とし自分の人格を養って他にまさろうと欲するならあなたのまわりは光で輝くだろう、あたかも日と月を呑みこんだかのように。そうなったらあなたは災いを避けられない。
賢者は言った。自分に満足している者は無益なことをしてきた者、成就は失敗の始まりだ、名声は汚名の始まりだ。誰が成功と名声から自由になり群集のまん中に降り立って消えることができようか?
その人は〈道〉タオの如く流れる。見られもせず。その人は〈生〉そのものの如く動き回る。名もなく家もなく単純でこそあれ分別はなく、どこから見ても愚者そのもの。その歩みは足跡を残さない。力もない、何ひとつ成就することもなく、どんな評判もない。誰を裁くこともないゆえに、誰一人彼を裁きはしない。こんな人こそ完璧な人、その舟は空っぽだ。』(『虚空の舟:荘子』 上巻より )

二浪目は東京藝大以外の美大も二つ受験しそのどちらもが合格だったが、自分が拘ってしまっていた東京藝大は不合格だった。その後三浪目が始まった頃同じ予備校に通っていた仲間の女性にこう言ったことがあった。「最近は絵画の受験に違和感を感じるようになってきた。だいたい絵画表現はみんなそれぞれなんだから暗記ものの試験と違って比較選別するのは不自然だと思う。それに油絵を描くには別に大学に通わなくても絵の具と筆、それにキャンバスがあれば充分なんじゃあないのかなあ?」と。それに対して彼女から「そういうのは負け犬の遠吠えってやつね!」とせせら笑われるように言い返されてしまったのだ。そしてその瞬間自分自身の心にこう誓うことになった。(絶対に東京藝大に合格してやる、そうして合格の確認だけして入学は辞退すればいい。そしてその時までは今話したことは自分の胸に封印しておこう。)そして私にとってのこの日からの受験勉強は絵画の受験そのものが不自然であると言っても負け犬の遠吠えだと言い返されないためのものになっていってしまった感が強い。その三浪目の受験は本当に厳しいものだった。実技一次試験の素描は試験場に置かれたモチーフを描く出題だったので無難に通過できたけれども、二次試験の出題が油彩画の受験史上前代未聞の「自由に絵を描きなさい」だったのだ。この試験で不合格だった時は背筋を寒気が走った。この時期油画科の競争率は三〇倍を超えていたので、大学受験の世界では尋常でない競争率の上に受験勉強のためのテーマさえまともに絞ることができないような状況ではこの先何度受験しても合格できるかどうかわからないだろう、下手すれば一生受験を続けても合格できないだろうと思った。自分の目の前が八方塞りに感じられ途方にくれてしまった。そしてその当時たまたまラジオから流れていたイーグルスのならず者(Desperado)というタイトルの曲がわけもなく胸に沁みてしまいレコード屋で買って夢遊病者のように何度も何度もこの曲ばかりを聴いていた。この頃までには合格発表のある桜の咲く春の季節は私にとっては悪夢の季節になっていて、三浪目の受験の合格発表の日の朝には自分が試験に落ちて途方にくれている夢を見た。そして夢で見た通りこの日合格発表の掲示板に自分の受験番号はなかった。
一九八六年春には運よく河合塾の美術予備校、東京校の特待生に選ばれ四浪目の予備校の学費は全額免除になった。またこの時期には映画監督の高橋伴明さん夫妻と交流があって、伴明さんは「俺は昔から映画制作には大学なんか行く必要ないと考えているけどお前が目指している画家だって同じだと思うよ」と私を励ますように語ってくれて、私の方からも「受験はこれが最後のつもりですし、もし東京藝大に合格しても入学は辞退するつもりです」と伝えるとひどく共感してくれていたのだった。その四浪目の最後の受験での実技二次試験の出題は『都市・森・道のどれかひとつをテーマに描きなさい』といったようなものだったと思う。試験場ではまず大学のゴミ捨て場を訪れオブジェに使えそうなパーツを探しに行った。その後集めてきたガラクタをコラージュ作品のようにキャンバスに貼り付けて最後に単色の黒で塗りつぶすという作品で、出題のテーマはほとんど無視していたし、この入試では実技一次試験の素描でもモチーフの形状がほとんど抽象化されたキュービズムの素描を描いていて、この時期の予備校の授業料全額免除の大きな理由でもあったと思われる私が割と得意にしていた写実的な描写をまったく使わずに実技試験を終えてしまっていたこともあってか試験終了時点では合格の感触のようなものはほとんど感じられなかった。
そしてちょうど三十年前の今日一九八七年三月二十日の合格発表の日は、結果が万が一合格であっても入学は辞退するという強い覚悟を持って発表を見に出かけた。会場である東京藝大の美術学部に向かう際上野公園を歩きながら(大学に落ちてこの先実家からの仕送りがなくなっても六畳一間のアパートを住居兼アトリエとして使い、食事つきの皿洗いのバイトを昼夜通しで続けていけば画家をやっていくための最低限の生活費と画材代くらいはなんとかなるかなあ)とかそんなことを考えていた。ところが合格者のリストに自分の受験番号を確認した直後、飛び上がって喜んでしまい一気に入学手続の書類をもらうための会場を訪れてしまったのだった。このときは自分のいい加減さに本当に呆れかえってしまった。“ミイラ取りがミイラになる”という諺や「汚職まみれの政治家だって初心からそうだったわけではないこともあるんだよ」といったどこかで聞かされた話が急に思い出されてしまった。合格発表の会場を出た後は実家の家族などに電話で合格を伝え、その後映画監督の高橋伴明さんにも電話をした。伴明さん宅に電話をかけると最初奥さんで女優の高橋恵子さんが出て「あら、よかったわね」と特に驚く様子もなく普通に私の合格を喜んでくれている印象、その後伴明さんに代わってもらった。そして「映画監督や画家を志す人間には大学なんか必要ない!」と強い口調で語ってくれていた彼のほうはきっと私の合格を喜ぶことはないだろうと思っていた。しかしながら予想外にも電話の向こうの伴明さんは飛び上がってしまっているのではと思えてしまうほどの歓喜の声で私の合格を祝福してくれてしまったのであった。そしてちなみにあれから長い歳月が過ぎた映画監督の高橋伴明さん、京都造形芸術大学の教授の職に就かれていたようで二〇一二年からは映画学科長という肩書の地位にも就かれていたようだ。
“ミイラ取りがミイラになる”といった諺が思い出されてしまうような話を聞く際によく思い出すチャネリング本の一節があるのでここで紹介しておきたいと思う。

『宇宙存在としてのあなたになってみてください。あなたはいま教室にいます。一人の教師が、地球に行ってそのシステムを変えるためにシステムの一部になるというあなたの任務について説明しています。あなたはこの仕事のベテランです。自分はきわめて優秀な「体制破壊者」であると思っています。このクラスにいるあなたは上機嫌です。先生がいま面白い説明をしているのです。「君たちが地球に降りていったとき、君たちは信じられないかもしれないが、私たちも降りていって指示を与える必要が出てくるでしょう。というのは、君たちはいまここで聞いたことをすべて忘れてしまうからです」。体制破壊者であるあなた方はみな、ここでどっと笑います。というのも、その時はけっこう冷静な顔はしていても、いったん体制のなかに潜入すればこの教室のことは覚えていないであろうことを承知しているからです。先生はさらに続けてこういいます。「この写真を見てください。私たちが乗物から降りてくるところです。人間に変装した君たちがいますが、君たちは何が起きているのか全然わからないような行動をとっています。これが君たちの任務の一部なのです」。あなた方はこのように、すべてのことについて説明を受けてきているのです。わかってもらえたでしょうか。』(プレアデス+地球をひらく鍵 - 太陽出版刊より 原著名 Earth: Pleiadian Keys to the Living Library)

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公開日 2017年3月20日 月曜日